今日は色の心理的な表現を勉強する課題を振り返ってみたい。最初は暖色・寒色表現それは同時に膨張色・収縮色を表している。そんな課題だったように思う。つづいて春夏秋冬から喜び、哀しみ、など色だけでいろんな感情や言葉が表現できることを学びました。結構楽しかったしわかりやすかった。この課題で色を使いながら構成も学んだ。紙面分割(比率の美しさ)、強調(対比)、調和などを使って色の持つ役割すなわち色彩コミュニケーションの方法を学んだ。毎日違ったテーマについてプラン、表現、検証そして最終表現の繰り返しを続けた。一度作った色を保管しておけないので、同じ色を再度作るのも大変だった。完成しても何回も見ているうちに感じ方が変わってきたりとこれは今も変わらない気がする。次へつづく
色彩のベース最後は彩度スケール作りだ。二次元表現ですが色立体の概念が出来上がる授業です。まず中心は明度の柱(B?W)そしてその周囲は色相環の色が並ぶ。私たちはまず純色でも一番あざやかな赤で彩度スケールを作った。作り方は赤と同じグレーの明度を決定してその間を埋めていく作業だ。すなわち、純色の赤に決定したグレーの量を10%刻みで増やしていく。白と赤の間は赤に白を混ぜていく(明清色)で反対側は黒を混ぜていく(暗清色)、そして内部は濁色の世界になる。こうして赤一色からたくさんの赤をつくった。それは赤のグラデーションの世界。次は黄色や青そして緑、紫など色味が複雑になれば混ぜるポスターカラーの量が微妙なさじ加減になって見本にあわせることが難しかったことが思い出される。なかなかA評価がもらえなかった。色を見分ける目が養われたと同時に色に対する微妙な感情が湧いてきた。...次は配色の実習を追っていきます。
今日から、色彩の基礎授業を記憶を辿りながら書いていきます。まず、学校専用の課題のための紙をベニヤ板にミズバリと言っていたように記憶していますが、間違ってたらお知らせください。これは、ポスターカラーを使うので塗りやすいように、板にガムテープで紙を固定して平筆で水を含ませて、乾いたときには凸凹無しに綺麗に貼れます。課題の前には家でこの作業を済ましておきます。一日3枚くらい使うので、帰宅したら真っ先にこの作業をして明日に備えます。その台紙で色彩の課題を提出していきます。まずは基本の色相環(マンセル24色相)を自分で作りました。赤からオレンジ、黄色そしてライトグリーンへ、グリーンからブルーグリーンそしてブルー。次に赤を加えていって紺から青紫そして赤紫そして元の赤へ戻る。それを赤色、黄色、青色の3色で作りました。見本に忠実に色を作り、紙に塗って乾かして色が合っているか確認しての作業でした。非常に根気のいる課題でした。
つづく
石膏デッサンは朝10時から夕方4時まで、週一回で一年間だった。私は美大受験用にと、高校3年の時から近くの絵画教室で石膏デッサンは習ったので、戸惑いはなかった。評価はA,B,C,Dの4段階。成績はBとCしかとれなかった。当時はまだ初歩の初歩だったようだ。今振り返ってみるとこの授業は表現力、形態把握などみた物をしっかりとらえる訓練とそれを二次元に表現する訓練としか、とらまえていなっかったように思う。独断が許されるなら私はこれに、バランス感覚としての比率(比例)
の正確さも頭に入れておかなければとかパース的感覚とかを覚えていく訓練もあったかなと思われる。もちろんそこには形、立体、量、色彩、質感、空間、光などたくさんの学ぶべきテーマがあった。
(つづく)
私の専攻はグラフィックデザインでしたが、私が入学した年からカリキュラムが変わりました。まず一年目はすべてのデザインの基本となる学習を、二年目に専門のグラフィックデザインを学習そして研究科が設けられました。これは建築、インテリア、工業デザインについても同様でした。グラフィックは100余名の学生がおりました。最初の授業で主任の先生は以下のことを述べた。夏までに今の人数が約半数にします。そしてこの中で一生デザインを職業としていく人は2?3人だろうといった厳しいお話だったと記憶しています。そんな話を聞いても、これからの授業内容にすごい興味を持っていた私は、将来のことより目の前のカリキュラムに心が躍っていた。前期の一週間の振り分けは、デッサン、色彩、構成(平面・立体)、図学、レタリングといった内容が中心でした。いま、振り返って一つ一つアナログ時代の勉強をお伝えしたいと思います。(次回はデッサンについて...つづく)
家から通えて一番安い専門学校を探すのに必死だった。どうしてこの専門学校を探したのか、いまは記憶が定かでない。でも住まいである京都では探さなかった。就職は大阪でと決めていたこともあって大阪で探した。それが大阪城を身近にみる某専門学校だった。母も心配だったのだろうか、説明会についてきた。そこで対応していただいた事務所の人に、もう一年浪人して大学を受験したらと言われたことを覚えている。でも、経済的にそれは出来なかったこともあったが、具体的にどんなことを勉強し、どんな能力を身につけたらいいのか詳しく調べようとしなかったので美大には執着しなかった。今から考えたら無謀とも思える行動だった。母も私の考えを覆すのは諦め、まあ食いはぐれたら近所の看板屋さんに就職頼んだるわと言ってくれた。当時はまだ、パソコンもDTPという言葉もなかった時代だった。デザインという言葉に夢を走らせていただけだった。今の人みたいに真剣に自分の将来を考えていなかったように思う。失敗したらという思いは全くなかった。次回は核心である専門学校の教育の内容に... つづく
ホームページでお伝えしてから長くかかりましたが、ようやく準備が整いました。まずは、ブログに雑談風に書き進めていって、それに基づいて自分のデザイン考みたいな物に仕上げたいです。私は普通高校を卒業してデザインの専門学校といったごくありふれたコースをたどり、グラフィックデザイナーとして就職。いまも、現役として印刷物の制作に関わっています。高校3年に進んだとき、世の中はデザインブームが始まっていました。亀倉雄策、永井一正、田中一光などが活躍しており、当時若手の旗手だった横尾忠則はサイケデリックの世界を創り出し一世を風靡。そんな時代に多感な高校生だった私は、自分の能力でいけるかどうかといった不安より、何か創る仕事がしたいといった一途な思いだけでグラフィックデザイナーになりたいと、無謀にも進路を決めてしまいました。当然、先生や回りのものは反対でしたが怖い物知らずというんでしょうか?当時の京都市立美術大学を受験。当然受験は失敗、それでもやりたい一心で一番学費の安い専門学校を探し入学しました。 つづく
